雍正帝(ようせいてい)が皇位に就いた後に後宮入りする甄嬛(しんけい)の姿を描いた作品『宮廷の諍い女』。
原作は、『甄嬛伝』という名の通り、甄嬛の一生を描いた物語です。
もともとは清朝の時代とは関係ない物語を、ドラマでは清朝の時代に当てはめたとのこと。
フィクションであるはずなのに、史実に基づく登場人物が多い為か、
「甄嬛は実在していたんでは?!」
そんな風に感じる方もとても多いのではないでしょうか?
そこで、中国歴史を紐解き、実際に甄嬛(しんけい)は実在していたのか調べてみました。
甄嬛(しんけい)は実在していたのか!?モデルとなったのは地位は低かったが皇太后まで昇りつめた実在する人物だった!
天才的な人心掌握術を駆使し、後宮での争いに勝ち抜き最終的には聖母皇太后まで上り詰めた主人公の甄嬛(しんけい)
歴史上実在していた鈕祜禄(ニオフル)氏、後の孝聖憲皇后をモデルとして描かれた人物のようです。
孝聖憲皇后となったニオフル氏は、1692年誕生。
13歳の時に当時康熙帝の第4皇子胤禛(のちの雍正帝)の側室となっています。
胤禛には、正妻はウラナラ氏、上の位の側室として年氏(華妃)や李氏(斉妃)がおり、
ニオフル氏は、名門氏族の出身ながらも父の身分は高くなかったので、一番下の位であるゲゲ(格格)として嫁ぎました。
心優しい人物だったようで、雍親王(胤禛)が病を患った際、ニオフル氏はかいがいしく看病し、それがきっかけで寵愛を受けたようです。
そして、1711年、19歳のときに後の乾隆帝である四男の弘暦を出産。
1723年に雍親王が即位(雍正帝)すると、熹妃に封じられ、さらに1730年には熹貴妃に。
最終的には、息子弘暦が乾隆帝に即位することで皇太后まで昇りつめ、84歳没というご長命で、皇太后として皆から羨む人生を過ごされた方です。
実在していた鈕祜禄(ニオフル)氏と甄嬛(しんけい)の違い
ニオフル氏の生涯を調べていくと、『宮廷の諍い女』の内容は史実とは少し異なる部分が。
嫁いだ時期が違う!紫禁城の秀女選抜は受けていない
ドラマの中では、政務に没頭しすぎる雍正帝を心配し、子孫繁栄を案じる皇太后が秀女選出を提案し、甄嬛(しんけい)は入宮しています。
しかし、実際には雍正帝が帝位につく前の親王の頃に嫁いでいます。
紫禁城の秀女選抜は受けていません。
出身が違う!甄嬛(しんけい)は漢族の役人の娘
甄嬛(しんけい)は、漢族の役人の娘で秀女として選出され入宮していますが、鈕祜禄(ニオフル)氏は、満洲鑲黄旗の出身。
ドラマの中では、甄嬛(しんけい)は廃され出家しますが、その後皇帝が甄嬛(しんけい)を宮中に戻すために満州鑲黄旗である鈕祜禄(ニオフル)の姓を授け移籍。
漢族ではなく満州族の鈕祜禄・甄嬛(ニオフル・しんけい)と名乗るようになります。
最終的に無理やり合わせた感じがしますね(笑)
甄嬛(しんけい)の子供は3人。ドラマでは、後の乾隆帝は産んでおらず
史実によると、鈕祜禄(ニオフル氏)の産んだ子供は、第4皇子である弘暦1人。
それに対し、甄嬛(しんけい)は朧月公主、双子として生まれた第6皇子である弘曕と霊犀公主の3人。
甄嬛が宮中に返り咲く際に、弘暦の母という名目で戻るのですが、後の乾隆帝となる弘暦の実母ではありません。
甄嬛(しんけい)の活躍はたった12年
ドラマを見ていて、無理があるなと思うところが、出家した後に宮中に戻る際の甄嬛(しんけい)の設定。
第4皇子・弘暦を養子し、弘暦との年齢を合わせる為に、甄嬛(しんけい)の年齢を10歳増やし30代にするエピソードが。
となると、
実際には何歳で皇太后になったのだろう・・
という疑問が出てくるんですよね。
そこで、鈕祜禄(ニオフル)氏と甄嬛(しんけい)の一生をまとめてみました。
鈕祜禄(ニオフル)氏は、1692年に生まれており、17歳で秀女として入宮した甄嬛(しんけい)とは、15歳の差がありました。
1736年に、第4皇子である弘暦の即位と共に皇太后になりますが、入宮してからたった12年しかないのです。
鈕祜禄甄嬛と名を改め、年齢を22歳から32歳へと10歳足し、第4皇子・弘暦の母として後宮に戻るという無理な設定は、この年齢の差を埋める為だったのでしょう。
まさかの実年齢29歳の皇太后。ドラマだからありうる設定ですね。
やはり甄嬛(しんけい)はフィクションのキャラクターであり、
歴史上の実在の人物ではないのです。
『宮廷の諍い女』こんな裏話も・・・
乾隆帝の母である鈕祜禄(ニオフル)氏。
ドラマの中では、甄嬛(しんけい)は漢族出身であったにもかかわらず、満州族へ移籍し鈕祜禄ニオフルの姓を名乗りました。
実は、乾隆帝の生母は漢族だったという裏話が存在します。
清朝のあらゆる「正史」では、
乾隆帝の父は雍正帝で、母親も満洲族 それも開国の大功臣である鈕祜祿(ニオフル)氏の流れをくむ女性である
とされています。
ところが、とある文人が自著に乾隆帝の生母を「銭氏」と記した記録があるのです。
しかし、この書物には初歩的な誤記が散見されることから、当時はあまり重要視されていませんでした。
「銭氏」という漢族の名は、当時浙江省で多くの著名人で名乗られていたようです。
ただ、近年、雍正帝の即位直後に作成された信頼できる史料から、乾隆帝の生母を「鈕祜祿氏」ではなく「銭氏」と記した史料が確認されたそう。
「清朝の最盛期を築いた偉大な乾隆帝は,漢人であるに違いない」
そんな漢族の想いから派生した噂話だろうと思っていましたが、少し信ぴょう性が出てきたのではないでしょうか?
もしかしたら、ドラマ『宮廷の諍い女』の中にも真実の欠片が隠れているのかもしれませんね。