今夢中になってみている中国時代劇ドラマ『始皇帝 天下統一』
これは、秦の始皇帝を学ぶための教科書といっても過言ではないですね。
これだけ本格的な中国ドラマの歴史超大作に臨んだのは初めてなのですが、思いっきり嵌まってしまい、史実で実際あったことなのか!!とネット上の文献を読みまくり、日々学んでいる今日この頃です(笑)
しかし、全78話!
長かった・・・・
世界史で学んだ程度の知識であった秦の始皇帝ではありましたが、『始皇帝 天下統一』を通して見ることで学んだ始皇帝について、相関図(家系図)を元に、わかりやすく始皇帝の行った功績をまとめてみようと思います。
『始皇帝 天下統一』をご覧になる方への少しでもサポートになれば幸いです。
始皇帝とは?(BC259年 – BC210年)
名は、嬴政(えいせい)。
父である異人が趙に人質として差し出されていた頃、趙姫との間に趙の都甘寧で生まれた。
幼少時代は、甘寧で育つ。
あるとき、趙の商人呂不韋が、父である異人を王位へつけるべく甘寧より脱出させる。
異人は、秦の都咸陽へ辿り着き、華陽夫人との養子縁組することで正式な嫡子となる。
一方で、嬴政と母趙姫は甘寧に取り残され、過酷で厳しい潜伏生活を余技なくされた。
そんな悲惨な幼少期を送ったことが、周囲の国々を滅ぼし天下統一への原動力になったのかもしれない。
その後、荘襄王の死去により、政は13歳の若さで戦国七雄の一国である秦の第6代王として即位。
初めは、父の遺言より母趙后と呂不韋を相国として国事をゆだねたが、嫪毒(ろうあい)の事件に連座し、二人を更迭。親政を始める。
他国を次々と攻め滅ぼし、紀元前221年に史上初めて中国統一を成し遂げ、自ら始皇帝と称した。
秦の始皇帝というと、誰もが知っている歴史上の有名な人物ですよね。
周王室の衰退と共に、七雄と呼ばれる諸侯たちが王を名乗り、しのぎを削って戦った春秋戦国時代に終止符を打ち統一を成し遂げた偉大な王です。
ドラマ『始皇帝 天下統一』は、時代考証に力を入れ、最新の考古史料を参考に、極限まで史実に忠実に始皇帝の生涯を描き出しています。
多少の脚色はあるものの、忠実に描かれているからこそ始皇帝の生涯を学ぶには非常によい題材。
いろいろと分析していきましょう!
『始皇帝天下統一』における始皇帝の相関図をわかりやすく作ってみた!
まずは、『始皇帝 天下統一』を元に、秦王朝の始皇帝にまつわる相関図(家系図)をわかりやすくまとめてみました。
初代王 恵文王
秦国において、王という称号を名乗り始めたのは、初代王である恵文王。
それまでは、王ではなく君主として秦国の地域を治めていたようです。
そのため、穆公(ぼっこう)のように、公という呼び名でよばれていました。
恵文王は、秦の領域である関中の後ろに大きく広がる巴蜀を併合したことで有名な王。
蜀の領地を取る事で、秦は大きな穀倉地帯を得ます。そして、長江下流にある楚に対して河を使った進軍・輸送が可能になり、圧倒的に有利な立場に立つことができたのです。
3代王 昭襄王
昭王の時代に、秦は800年続いた周を滅ぼし、周囲の国々を屈服させ、秦国の絶頂期を迎えます。
3代王の昭襄王は、ドラマの中でも戦神ともうたわれ、日本においてはキングダムの王毅が使えていた偉大な王としても描かれていますね。
昭襄王は、もともとは異母兄の武王が力比べで脛骨を折り急逝したため、急遽即位した王です。
幼少の頃、即位したこともあり、母である宣太后とその弟魏冄が実験を握ります。
しかし、先の後継者争いに破れた反昭襄王勢力による反乱が勃発、兄弟や武王の母や正室などの反勢力がことごとく処分されています。
幼少期に即位し実権を母に握られ、謀反による乱を経験しているところなど、昭襄王と嬴政には似通ったところが非常に多くびっくりしました。
これぞ嬴政が、秦の国土を拡大しつづけ増強する国力築き上げた戦神昭襄王の再来と呼ばれた理由かもしれません。
4代王 孝文王(始皇帝の祖父)
昭襄王が75歳で崩御した後、即位した孝文王ですが、驚いたのは、即位してたったの3日で亡くなられてしまったこと。
歴代最短の王位ではないでしょうか?
この3日間のなかに、なんらかの謎が隠されているのではないかと感じますよね。
実際は、即位した3日後の大宴会の後、王宮に戻った際に亡くなった事になっています。
もともと体調が悪かったのか、もしくは心筋梗塞などで突然なくなったのか・・・
理由はわかっていません。
一部では、子楚を王位につけたい呂不韋による暗殺だったのではないか・・・という説もあったようです。
ただ、昭襄王が75歳までご存命であり在位についていたため、太子であった安国君が即位したのが53歳。当時の平均寿命から考えると、早すぎる死ではなかったようです。
5代王 荘襄王(始皇帝の父)
そうして、安国君の最愛の妻である華陽夫人の養子となった子楚が、荘襄王として即位します。
荘襄王が即位すると共に、嬴政は太子となり、趙の孝成王は政母子を秦に送り返します。
ここで、やっと嬴政と母趙姫は秦国へ戻ることができたのです。
しかし、甘寧に取り残され、過酷で厳しい潜伏生活を送った嬴政は、父である荘襄王へのわだかまりが溶けません。
そりゃそうだよね。甘寧で人質として取り残されている間にも秦は趙へ攻め入っているんです。
許せるはずがありませんね。
秦は強大な軍事力を誇り、先代の荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていますが、
荘襄王はたった3年もたたずして亡くなっています。
35歳でした。若すぎる・・・
政は13歳で王位を継ぐのです。
もし、3日で亡くなった孝文王が、5年生きていたら・・・
先に亡くなったのは、子楚だったかもしれないのです。
そうすると、嬴政が王位につけなかったかもしれなかったということですよね。
一つ間違えば、歴史が大きく変わっていたかもしれない!
偶然と必然のさまざまな運命の歯車がかみ合って、嬴政の始皇帝への道は綴られてきたということがわかります。
なぜ始皇帝は天下統一ができたのか?その謎に迫る!
なぜ、始皇帝は天下統一ができたのか?
その理由の一つに、秦国の歴王たちが築き上げた広大な国土と戦力が培われていたことがあげられます。
家系図より読み解いていくと、
まず初代王 恵文王が蜀を取り込むことで西側の敵に脅かされることがなくなりました。
北・南においても、山岳地と砂漠に囲まれ知性的に有利だったことがあげられます。
北・南・西の国境に兵を配置させる必要がないのです。
更には、昭王の時代に、魏・楚との闘いで国土を広げ、常勝白起将軍が趙兵40万人を生き埋めにし、趙の国力を揺るがしたのは有名な話です。
昭襄王は、戦神とうたわれているように、戦に勝つことで国力を伸ばしてきました。
しかし、昭襄王であっても、戦だけでは秦の統一への道はかないませんでした。
なぜか・・・
戦においては、他国も非常に優秀な将軍が名を連ねており、6国合奏などによる秦に対しる抵抗は凄まじいものがあったからです。
昭王と始皇帝の違い!それは始皇帝のおこなってきた数々の功績!
では、なにか始皇帝と違ったのか・・・
始皇帝の闘いは、戦だけにあらず。
趙を滅ぼすために様々な策を用い攻めたが、趙の将軍李牧のもとにことごとく破れ行き詰る。
そんな中で、始皇帝が徹底して行ってきたこと。
それは、国家の基盤である民の暮しを整えた数々の功績が、大きな勝因だったのではないでしょうか?
始皇帝の行った数々の功績とは!
1. そのまず一つ目は灌漑事業に大金と人力を多大に費やしたこと。
灌漑事業とは?
→韓出身の水利技術者鄭国によって秦に建設された灌漑水路。
鄭国はもともと韓から秦に送り込まれた間者で、秦に大規模土木工事を起こさせ、
人力と財力を注がせようと企てたもの。
鄭国は間者であったことを認めた上で、溝渠事業の完成はいずれは秦の利になると説得して
処刑を免れ10数年かけて完成。
渭水北方の乾燥した平原地帯を潤し、豊かな実りをもたらした。
鄭国渠がもたらした経済力が秦の天下統一事業を成功に導いた
始皇帝は、韓の間者である鄭国の提案した灌漑事業への取り組みを許可し、間者であることが発覚した後もそれを後押しし、300里に及ぶ鄭国渠を作り上げます。
そして、従来未開拓だった土地を開墾し移民を受け入れることで米不足に陥らなくなりました。
他国を滅ぼした後にも、家や農地を失った人々へ土地だけでなく、十分な穀物や家畜・農具も与え、税金を免除するなど様々な策を用いて、民の生活基盤を整えたのです。
豊富な財力を成しえるようになったことが国を強くした要因の一つと考えられます。
鄭国が韓の間者であることに気が付いても、なお、国の為になると敢えて活用した嬴政の判断力には、目を見張るものがあります。
戦よりも6国の民を秦に呼び込む策を優先して進めることが戦略の一つでした。
2. 二つ目の功績!それは文字の統一『秦篆』
秦篆とは
→宰相李斯によって定められた漢字の基本『統一書体』
文字が不統一であると行政に差し障りが生じる為、新たな領土を加える度に、秦の文字の使用を強制した。単に文字だけでなく、語彙そのものや文章の書き方をも秦風に統一されている。
文字の統一を進めることで商人たちの契約等をすべて秦文字を利用することを徹底し、秦国がなくては生活できないよう、人民の生活基盤に直結する対策を打ったことも大きな勝因の一つであったと考えられます。
秦の文字を使う=庶民の暮らしに秦のやり方が浸透していくことで、民にとっては秦国に属する事に対する不安が自然となくなります。
王を屈することよりも、民の暮らしを秦になじませることで国の統一を図ろうとした嬴政の意志が伝わってくるのです。
3.封建制度から『郡県制』による中央集権国家への移行
『郡県制』とは
→国を数十個の郡に分け、郡の下に県を置き、皇帝が直接官吏を任命する制度
この制度の良いところは地方政権を作らせないことによって、地方長官が直接皇帝に責任を負う。
封建制のように地方が中央の命令を無視できなくなる。つまり中央集権の始まりとなった。
もう一つ始皇帝がこだわっていたこと。
それは、封建制から中央集権国家へと変貌を遂げること。
春秋戦国時代では、多くの王が存在したように、秦国においても多大な功績をあげたものへは、領地を与えて家臣は諸侯として仕えることで主従関係を結んでいました。
しかし、国が政策を推し進めるにあたり、諸侯たちの権力が強まり思うようにいかなくなることから、始皇帝は中央集権国家への移行を目指します。
ドラマの中でも、灌漑事業を進めるにあたり、王が管轄していない諸侯の土地で反抗にあったりと、嬴政は封建制度の弊害を目の当たりにします。
封建制度により王の権力が薄れ、諸侯たちの力が強まり法治制度がいきわたらなくなる。
それを防ぐ為にも、灌漑事業を進め新しい土地を開墾し、より広大の地域を支配するための統一権力を行使する郡県制が用いられたのです。
終盤で、王翦(おうせん)が戦功をあげ恩賞を望んだにも関わらず、嬴政がそれを認めなかったことで、前線から離脱するという場面もありましたね。
これこそ、当時当たり前だった封建制度に対し、中央集権国家による強い国家を作ろうとした嬴政の基礎固めだったのです。
そのほかにも、ドラマには詳細は出てきませんでしたが、
・法治国家として法令に基づく治世をおこなったこと
・道路の整備や貨幣の統一などで商人たちの交易を促したりしたこと
これらの事業が、民の生活を豊かにしたと共に、
各国を統一するという確固たる強い意志の元、施策を施してきたことがよくわかります。
始皇帝の目指した天下統一とは!
このように、
戦乱の世を終わらせ、各国でバラバラとなっている指針を統一することで、法治国家として民に平等で安定した暮らしを与えたい!
そんな気持ちから、数々の政策をとり天下統一を目指し成し遂げたのが始皇帝の嬴政でした。
第65話で、秦に長く人質として暮らしていた姫丹が、秦についてこう述べています。
「人心を掴めている。大臣から庶民まで大王にしたがっている」
民たちの平穏に暮らしをしたいという気持ちが理解できている、民の生活が農耕であることが理解できているからこその治世対策。
これこそ、幼少のころから人質として貧しい暮らしを経験し、民たちの暮らしをそばで見てきたからたからこそできる嬴政ならでは施策だったといえます。
63話で、呂不韋が趙佾に語った言葉にも、秦の素晴らしさが表現されています。
秦と趙を比べたときの商品の質は?
国の基本である民が多く、
国庫の穀物、貨幣の量も格段の差、
法令の厳密さをみても、秦の方が優れている
そういって、呂不韋は秦国以外に仕えるつもりはないと断わったのです。
呂不韋カッコよすぎます。(実は、このドラマを見ていて呂不韋の大ファンになりました笑)
歴代の王たちの領土拡大と戦力増強により盤石な国土を有した秦を引き継いだ始皇帝は、
法で定められた秩序ある世界を中国全土へ広げ、安全に安心した生活を送ることができる権利を民に与えることを目的に天下統一を目指し、実践した人だったのです。
どこかで聞いたことあるなとおもったら、これって世界人権宣言??のような・・・
世界人権宣言
すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する
いわゆる、現在の人権宣言の基礎となるものを作り上げたのが秦の始皇帝だったのですね。
大いに学ぶことができた素晴らしいドラマでした。