みなさん、こんにちは。中国時代劇ドラマ研究室のHitOです!
中国の歴史って奥深い。
今、BS11で見ているドラマ『始皇帝天下統一』
史実をもとに忠実に再現されているドラマでもあり、ここ数日のめり込んで観ておりますが、実際本当にこんなことがあったのだろうか!?!と驚きながら、疑問に思ったことを調べに調べ、ブログに残すようにしています。
今回、私が気になったのは始皇帝嬴政(えいせい)の妻たちについて!
嬴政の母である趙姫については様々なドラマがあり、史実との違いなども含め過去に述べましたが、
始皇帝の妻については、母に比べると全体的に露出度がとても低い!
恋愛的要素よりも、始皇帝がどのように他の諸国を攻め滅ぼして天下統一していったかがテーマに描かれているからなのかなと思いましたが、それだけではなさそうです。
ということで、始皇帝である嬴政の妻について調べていきたいと思います。
ご興味ある方は、是非ごらんくださいね。
始皇帝の正妻は誰?どんな人だったのか?
実は、始皇帝嬴政の妻である妃は、歴史上どこを探しても名前が残っておりません。
中国史上初めて中華統一を成しえた人物で、初めて「皇帝」を名乗った偉大な人物にも関わらず、妻についての情報が残っていないのは、歴史的にみても異例なことのようすね。
それもあってか、古代の詩や小説で始皇帝妻 美人妃の伝説が残っていたり、昨今のドラマやアニメで仮想の妻が描かれるようになっています。
キングダムでは、嬴政との間にコウという宮女が仕え姫を産んでいます。
しかし、伽の相手として触れられるだけで妻として表立って描かれていません。
中国ドラマ『始皇帝 天下統一』における始皇帝の正妻は?
中国ドラマ『始皇帝 天下統一』では、二人の妻が出演します。
華陽太后推薦!楚の娘 羋華(ビカ)
女性に対しまったく興味を示さないなと思いながらドラマを見ておりましたが、23話でやっと少し恋愛らしきシーンが!
その相手が、華陽太后が差し向けた羋啓(後の昌平君)の娘の羋華でした。
嬴政が競馬の最中に羋華とぶつかりそうになり出会うのですが、色白で清楚な女性でも目を奪われるような美女!
華陽太后の差し金だとわかっていても、一目惚れも無理のない美しさに加え、「想い会う気持ちは本気」という羋華の言葉に、嬴政は惚れこんでしまいます。
初めは、言葉少なく控えめで大人しい女性かと思って見ていましたが、斉の公主歓迎会で屈辱を受け自害しようとする激しさをも持つ女性!
太后である趙姫と同じタイプかもしれない(笑)
太后自身が敵側の駒ながらキライではないとほのめかすところが、似たもの同士だなと感じました(笑)
そんな羋華を演じているのは、中国でモデル・女優で活躍中の佳琪(kiki)。
日本には、まだ情報がほぼない女優さんですが、中国では人気殺到!
古装衣装も似合っていましたが、今どきの格好もも飛び切り可愛いモデルさんです!
衣装や化粧が違うとこんなにもイメージが違うかと、はじめは違う人かと思ったくらい!
古装衣装も似合っていましたが、今どきの格好もも飛び切り可愛いモデルさんです!
母趙姫が呼びよせた斉の公主 離秋
華陽太后となにかと敵対する嬴政の母趙姫は、楚一族をけん制するために嬴政に斉の公主 離秋を嫁入りさせようとします。
婚姻関係を結ぶことによって、秦からの侵略を防ぎたい国々の運命を背負い、嬴政の元へ嫁ぐ公主。
この離秋も、羋華に負けじと美しい女性。そして、美しさに加え、さらに賢さも持ち合わせた姫なんですよね。
歓迎会では、政治や文化などどんな話題にも、物おじせず的確な答えを返し、嬴政の心をつかみます。
艶やかで華やかな衣装で着飾っていた羋華に比べ、離秋は品の良さが目立ちましたね。
羋華が趙姫タイプというのであれば、離秋は華陽太后タイプ、理性的で才色兼備な女性です。
そんな離秋を演じているのは、中国の女優陈米麒 チェン・ミーチー。
もともとモデルでしたが、女優としても数々のドラマや映画に出演しています。
正妻はどちらだったのか?史実より読み解く有力候補!
嬴政(えいせい)としては、華陽太后が推薦する羋華を妻とすると約束したものの、母からの強い要望で斉の公主離秋を断わるのも難しい状況。
結局のところ、李斯に相談した嬴政は楚の娘 羋華と斉の公主 離秋を同時に妻として迎えることに。
しかし、どちらを正妻にするかで苦渋の決断を迫られます。
客観的にみると、離秋の方が公主でもあり賢妻として政治に干渉せず正妻にするにはふさわしいと感じるところですが・・・
しかし、ドラマにおいては、後宮における政治の混乱を避けるために嬴政は王妃を立てないと宣告するのです!
その決断に対し、素直に従う賢妻たち。
その後も、二人寵愛を争うことなく、お互いに尊重しあって後宮を支えあう様子に、二人の賢妻ぶりが堅調に表れています。
では、実際にはどうなのか!
初めにも記載しましたが、始皇帝の妻にかんする記述は、現時点ではどこにも確認されていません。
しかし、歴史書では嬴政の世継ぎである扶蘇の母について、楚の王族ではないかという説があるようです。
となると、実際には楚の姫である羋華のような存在が、正妻であった可能性は高いかと思います。
が、しかし真実はいかに?
そこを想像するのも楽しかったりしますね。
『始皇帝 天下統一』にでてくる冬は、実在してた?どんな役割?
『始皇帝 天下統一』を見ていて気になる人物。冬。
嬴政が母子が甘寧に取り残され、逃げ込んだ民家に遺体と一緒に寄り添っていたのが冬でしたね。
追手から嬴政たちを助ける為に、『母は流行り病?で亡くなった』と伝えます。
その後、嬴政が母子と共に姉のような存在として一緒に育ち秦へ脱出するのです。
その後も、秦の大王となった嬴政の義姉・お付きの人として側で仕えましたが、実際には母親である趙姫との連絡役として使われていたのではないかと思われます。
実際に、始皇帝の親政が始まるまでは母親の趙姫が嬴政の代わりに政治を取り仕切っていたこともあり、母が自分の思うように嬴政を動かしたかった為に冬を重用していたように感じました。
しかし、当の本人である冬は、嬴政のことを密かに愛していた様子。
嬴政が妻を娶ることになった際に、まったく自分が相手にされないことに、とてもショックを受けてましたね。
あれだけ美しい人がそばに居たとしても、嬴政からすると姉でしかなかったようです。
始皇帝というと、冷血な人物というイメージがもともとありましたが、嫪毐の起こした反乱で扶蘇を守るために亡くなった時の冬への悲しみと深い愛情をチャン・ルーイーが素晴らしい演技で表現していました。
個人的には、嬴政と冬が結ばれてほしかったなぁ~。
もっと、冬が趙姫みたいにガツガツ自分のやりたいように動く人だったら、ずいぶんと違うドラマに仕上がっただろうなと感じた一コマでした。
あ、そうそう、冬は史実には一切存在しません。完全なるフィクションです(笑)
始皇帝の妻の名前が残っていない理由!
さて、色々と『始皇帝 天下統一』で描かれていた嬴政の妻となりうる女性たちを述べてきましたが、なぜ始皇帝の妻の名前が残っていないのか?
そこの疑問についてもう少し調べてみました。
始皇帝妻の謎① 消された可能性
同じ時代において、秦を滅ぼした漢の始祖である劉邦の正妻の名前は、はっきり記載されています。
名は娥姁。現在は呂后と呼ばれており、中国史における三大悪女の1人で、中国史上初の皇后です。
始皇帝の後の時代に前漢を立ち上げた劉邦の正妻の名前がわかっているのに、中国本土を統一した始皇帝の正妻の名前がわからない訳がありません。
これより、意図的に名前を消されたのではないかという仮説が出てくるのです。
始皇帝に関する歴史的記述は、前漢 武帝の時代に司馬遷が編纂した『史記』に記載されています。
秦が滅んでから100年ほどあとに書かれた書物です。
始皇帝は、中国全土を統一することで、貨幣の統一、文字の統一、度量衡、出身・身分関係なく優秀な人材を登用するということを法に基づいて行いました。
たった39年の間にそれらのことを一気に推し進めることができるカリスマ性を持った人物だったことがわかります。
しかし、当時の民衆たちにとってはこの急激な変化について行けず、秦の天下統一事業は、司馬遷の生きた漢の時代には、悪しきこととしてとらえられていた様子が伺えます。
そういった側面からも、『史記』を100%真実として見ることができません。
始皇帝の妻に対する記述に関しても、理由ははっきりわかりかねますが、呂后を中国史上初の皇后とするために敢えて消されたのではないか?という仮説も成り立つのです。
これは、始皇帝の子供にも同じことが言えます。
始皇帝の子楚や胡亥は、嬴という字が使われておりません。
何かしらの理由で、敢えて消されたのではないかという説もあります。
始皇帝妻の謎② 始皇帝の女性不振
始皇帝である嬴政は、生母である太后趙姫に裏切られた事が原因で、女性不振だったのではないかという説もあります。
『史記』に、「太后淫不止(太后止めどなく淫ら)」と記載されている通り、嬴政の母趙姫は、呂不韋や嫪毐と密通したことが記載されています。
呂不韋の息子なのではないかと疑われたり、愛人を作ったり、さらには愛人との間に子供を作り謀反を興すという母趙姫の裏切りにより、彼の女性観に大きな影響を及ぼしたと考えるのは容易です。
そんな経験から、後宮における妻たちの権限を抑える為に、歴史上に妻たちを記載しなかったのではないかという推測もできるのです。
結論!始皇帝に正妻は居たのか?
始皇帝の正妻については、さまざまな可能性を述べてきましたが、最終的には事実はわかっていません。
しかし、妻となる女性は大勢いたことが確認されています。
・妻が14人、子供が男女合わせて24人
・子供が40人近くいるけれど、母親の名前は一人もわからず不明
・1000人近くの宮女すべてが夜の相手だった
などなどいろいろな説があるようです。(笑)
当時より、王朝の血統を維持し、政治的な安定を図るための重要な手段として、王族や貴族にとって一夫多妻制は、一般的な制度だったはずです。
ただ、これだけたくさんの妻が居たはずにも関わらず、名前が一人として不明であることが、やはり始皇帝の妻の謎として面白さを増していると思います。
始皇帝が敢えて妻を歴史上に出さなかったのか!
何かしらの目的で、敢えてすべて消されてしまったのか!
始皇帝の妻に関する謎は深まるばかりでした。